僕はプログラミングのことを全く知らずになんとなく流れでプログラマーになってしまった。そして会社での仕事はC/C++を主に使うものだった。ただ、仕事を便利にしたりするためのツールなどはみんなが好きなプログラミング言語で思い思いに作っており、何人かは Ruby を使っていた。僕は人と同じものを使うのが嫌だったので、何かを自分で作るときは当時誰も使っていなかった Python を使うことにした。
そんな生活を続ける中で気づいたことがあった。Ruby を好む人は、自分のコードを見せたがる。そして、自分が何を考えてこう書いたのか、それをコミュニケーションの手段としたがる。僕にはその感覚がそのときはわからなかった。できることも構文も自分の使っているものとそんなに変わらない。なぜそんなにプログラミングへの接し方が違うんだろう?でも、少なくとも Ruby を好む人がプログラミングを楽しんでいることは伝わってきたし、意地でも Python を使い続けながらも、たぶん僕はそれを羨ましいと思っていたんだと思う。
そして会社員をやめて、ある程度使うプログラミング言語は自分で選択できるようになった。僕は迷わず Ruby を使っていくことにした。もちろんその背景にあったのは、Ruby を使ってプログラミングを楽しんでいた同僚の姿だった。
Ruby を使って改めて、実感としてわかった。Ruby は楽しい。ただその「楽しさ」は「簡単に使える」ということだけではなかった。正直言って Ruby は難しい。使えば使うほどその難しさや奥深さがわかってくる。しかしその難しさは心地よい難しさで、それが楽しい。Ruby でコードを書くときに考えることは多い。「ここはもっとキレイに書けないだろうか?」「こうすれば行数はかなり減らせるがわかりにくくならないだろうか?」言葉にすると普通だが、Ruby は自由を与えてくれるので、自分の思想やメンタルモデルと対話しながら書いているような体験が得られる。これは Ruby に独特のもので、今ではいくつものプログラミング言語を経験したが、同じ体験を与えてくれるものには今のところ出会えていない。
今、かつての同僚の気持ちが理解できる。Ruby を書くことはある意味自己表現のひとつの形であり、それを使ってコミュニケーションしようとすることはとても自然だ。そしてそれは OSS のコミュニティで大きな原動力となり、エコシステムを加速させる。だから Ruby が Ruby である限り、Ruby はこれからもプログラマーに愛されながら続いていくと信じているし、Ruby が Ruby でなくなるなんて絶対にないことは、Matz やコミッターの方々を見ていればわかる。
Ruby があって本当によかった。Ruby に出会えて本当によかった。Rubyist すべてに感謝を込めて。25周年おめでとうございます。